祖父が2ヶ月の闘病の末に亡くなった。一昨日10/11木曜日の朝のこと。集中治療室に移動しておよそ2週間が経ったタイミングだった。

見舞いには5回行った。1度目は転院前、祖父の地元の病院。体調不良の原因が不明で検査が続いていた折だった。微熱が続いていてだるいといってた、目が充血してたことを覚えてる。あの時、会話ができる場所に移ろうかとじいちゃんから言ってくれた。みんな用事があるから断って帰ってしまった。

原因が分からず、症状も悪化する一方で、大学病院に転院し、より詳しい検査と治療を開始することになった。見舞いに行くたび弱ってく、チューブに繋がれて苦しそうに息をするじいちゃんを見るのは堪えた。見たくなかった。それでもばあちゃんと母さんは毎日通った。

一度じいちゃんと2人で病室で過ごした日があった。午前の2時間半だけだったが、病室で過ごす時間の遅さに驚いた。その時じいちゃんは、なおちゃんがいるからかっこ悪いところは見せられないと言って気丈に振る舞った。じいちゃん毎日退屈じゃねと言ったら、毎日部屋の天井を眺めてると頭が狂いそうになると言った。検査の末に疑わしい病名がわかり、その前週から投与を始めた、使用するのに同意書にサインをした新薬を点滴しに看護師がやってくると、これで明日からピコーっと効かんかね、と言った。そのあとじいちゃんとうたた寝した。冷たい水をストローで飲ませてあげた。

会話ができたのは結局それが最後になってしまった。その後は透析中に意識が無くなり、集中治療室に移った。ドラマのセットのような無機質な部屋の中心に普通に寝てるようだった。アンモニアの数値が高いため意識障害を起こしているとのことだった。天井は高かった。

人工呼吸器を使用してた。それでも人工呼吸器を使用し続けることで別の疾患を引き起こすため、2週間後にはその機器を引き抜く必要があった。自発呼吸はほぼしていないという数値だった。呼吸器を抜けば呼吸ができない状態だった。気管切開という手もあったが、ばあちゃんたちは延命治療はしないというじいちゃんの意思を汲んで、自然の成り行きに任せるという決断をした。意識不明の状態であったが、ばあちゃんや叔母が声をかけると反応するようなことがあるようだった。

その約1週間後、危ない状況にあると親族が集められた。肌が黄味がかり、頬がこけて、しんどそうに荒い呼吸をするじいちゃんがいた。片目が開き黒目が濁っていたが、それでも動いていた。なにかを喋り出しそうな様子だった。意識が無い、意識不明とはどういう状態のことなのか理解できなかった。目を見るとつらかった。

そこからばあちゃん、父さん、父の兄弟、母さんが交代しながら病室に泊まり込んだ。呼ばれた日の夜と、翌日一日中だった。その間ひでくんが言うことを聞かずに怒鳴った。怒鳴るほどのことでもなかったのに。

一昨日は会社も朝から休み、一度帰宅した母とパンを食べながら当日の動きを確認してるとき、父から連絡があり、もうかなり厳しいと来た。連絡を受けて母が急いで飛び出した。私も急いで身支度をした。ヤクルトがヤクルトを売りに来た。2パック買った。道路が混んでた。いつもより時間がかかったが、誰からも連絡がないためまだ大丈夫だと思っていた。待合室に着いたら母が泣いてたので間に合わなかったらしいことがわかった。それでも間に合って息をひきとる瞬間を見届けられる自信がなかった、ホッとしているところもあった。

身体を綺麗に拭いてもらったじいちゃんに会いに行った。まだあったかく、苦しそうな姿しか久しく見ていなかったので、楽そうに見えた。口が開いていた。じいちゃんと私たちのこの間にある境界はなんだろうと思った。息をしてないことだけがただ一つ違いとしてあった、でもとりとめのないことのような気もして、2日前の夜よりも落ち着いていられた。

苦しく痛い時間が長かった。症例の少ない難病で、不安がどんどん堆積していった。それでもじいちゃんは頑張って耐えた、ばあちゃんも頑張って全員頑張った。大変だった。

慌ただしく通夜と葬儀が終わり、熱が出た。怒涛だった。体験したことのない状況のなかで、頭がいろんな疑似体験を引っ張り出そうとしているのを感じた。これまで触れてきた映画やドラマや小説や漫画や音楽のなかで、当てはめられそうなシチュエーションをフィルターにかけて抽出してる感じだった。これがわたしには未体験の状況を乗り越える方法なのかと思った。自分の引き出しから自分の支えになりそうなアイデアを引用してつぎはぎしている。でも今はなるべく無機質なものに触れていたい。